ミステリアスな女の子に恋をするということ
俳優さんでもミュージシャンでも、またそうしたパフォーマーでない人でも、「素が見えない」人というのがいる。決して人あたりが悪いわけではなく、むしろ話したり話している様子を見聞きすると好感が持てるのですが、「たぶん、よそ行きなのだろうな」と感じる。
まあ、パフォーマーの人は特にそうだろうね。パブリックイメージがあるし、それに沿った言動をすることが求められるのが常。一方、そうしたイメージからあえて外れた言動をすることが、意外性があって喜ばれる。それが素の場合もあるのでしょうが、私はそれもまた別の仮面、キャラクターだと感じることもある。
そうなってくると、「本当のその人って?」ということが気になる。いや気にしなきゃ良いのですが、気になる質なので。
それは、私自身の「素の自分」が分からないからだと思う。ブログでもtwitterでも、私の書くものをお読みの方は良く言えば「バラエティに富んでいる」、実際は「支離滅裂だ」、「2、3人いるのか?」と思われているでしょう。俺もそう思う。
でも多分ね、「本当の自分の姿」ってのはないと思うのよ。いろいろな人の前で見せる姿の集合体が自分ってことで。
実はこの話を突き詰めると、相当難しい問題に入ってくる。認識とか実存とか。私も学生時代にちょっとだけ勉強した。「本当の自分なんて『シュレディンガーの猫』みたいなものさ」とかいうとかっこいい。超かっこいい(中途半端な高校生並みの思考)。でも今回の話では本筋ではないのでここでストップ。
テーマは「ミステリアスな女の子に恋をするということ」って話(改めて読むとえらく俗っぽいな)。人前で見せる色々なパーソナリティ(≒ペルソナ・仮面)の中でも、限られた人の前でだけ見せるものがある。家族の前とか、好きな人の前とか。
素が見えない子に恋をするというのは、その「僕だけの限られたペルソナを見たい」という欲求なのだと思う。ツンデレみたいなギャップに惹かれるのもそういうことでしょう。
実は隠されたペルソナってのは大したことがなくてもいい。隠れていることに意味がある。世阿弥も『風姿花伝』で書いている「秘すれば花」と。その隠れた姿に出会えた時がトゥルーエンド。「ようやく、会えたね……」みたいなさ。
ただしトゥルーエンドがバッドエンドの可能性もあるけどねー。
あれ、好きな女優さんの素が見えないところに惹れかるという話をするはずが、なぜこんな展開に。
あ、その好きな女優さんが誰かという話は書きませんよ。それもまた、秘すれば花。
聞いてもらええればこっそり答えます。
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